朝日が昇るちょっと前。空が薄暗くニワトリの鳴き声も聞こえない、そんな時間。
 僕はコンビニに出掛けようと服を着替え、両親を起こさない様にそっと玄関を出ていった。春分の日はもう過ぎたにも関わらず、寒さが肌に突き刺さる。息を吸い込むと冷たい空気が肺を満たして痛かった。
 飲食店から吐き出される、料理の臭いが充満した小道を抜けると、六車線の大通りに出る。いつもは排気ガスによって澱んでいる大道路も通行量の少ないためか、空気が澄んでいるような気がした。
 駅に向かって歩いていくサラリーマンを視界に入れながら、六車線を横切るための横断歩道を渡る。道路を挟んで反対側にあるお目当てのコンビニへ、肩をすくめるようにして足早に歩いていった。


 コンビニの前には彼女がタバコを銜えながら空を眺めていた。
 僕と色違いのダッフルコートに身を包んだ彼女の足元には、蓋の開いた缶コーヒー二本が地面に、無造作に置かれている。今は三本目であろう缶コーヒーを左手に装備していた。
 待ち人はまだか、という苛立ちの雰囲気は態度と状況で十分に把握できる。この時の僕には微風によって靡くその彼女の長い黒髪が、怒っているように見えた。
 僕は彼女に息も荒いまま「待った?」と問いかける。
 彼女は軽く溜め息を吐いて「待ってない」と首を横に振った。相変わらずの無表情は呆れているのか怒っているのか、判断がつかなかったけど、僕は彼女の気持ちにあやかる事にした。

「……遅刻だけど」

「めっちゃ根に持ってるね。こんな時間に呼び出すのも悪いんだから、遅刻は大目に見てくれよ」

「午前四時三十一分二十秒」

「的確な指摘は嬉しいけど、電話で済む話じゃないの?」

 僕の問いに彼女は溜め息で答えた。
 吐き出された白いそれは、まるで目に見えるストレスのようだと思ったのは秘密である。

「じゃ、行こうか?」

 そうして僕は手袋を外し、彼女に手を差し伸べた。彼女は冷え性で何時も指先が冷たいから、比較的温かい僕の手を貸す。手を繋ぐという口実を作った言い訳だけど。
 でも今日は、彼女は僕の手を握ろうとはせずにポケットに入れたままだ。僕は理由を聞いたけど、決して語ろうとはしなかった。

 数分、あてもなく歩く。

 彼女とはこういった散歩や、公園のベンチに座って何時間もそこにいるケースが殆どだ。彼女がお喋りというわけでもないし、僕も口達者な方ではない。なので、無言の時間が必然的に多くなり、気まずい時間が長くなってしまう――というわけでもなかった。

 彼女のことが感じられる手の温もりと肩の触れ合いが、まるで魔法が掛かった様に時を忘れさしてくれる。無言の時間がむしろ心地よくて、殆ど表情を変えない彼女も僅かだが微笑んでいる。そんな雰囲気が僕は好きだ。多分、彼女も好きなのだろう。
 でも今日は少し違った。手を繋いでいないからだ。人目のつかないところでは結構甘えてくる彼女は、今日はかたくなにポケットの中から手を出そうとはしなかった。
 ポケットには膨らみが一つ。さり気なく僕は彼女のポケットに手を突っ込んだ。

「あっ……」

 鉄の円柱、つまりポケットのふくらみの正体は缶コーヒーだった。
 既にホッカイロの役目を終えたような生温かさ、相当な時間待って居たと実感させられる。彼女がホッカイロ代わりにしていたとしてもだ。彼女からの電話によって待ち合わせに向かったのだが、その時には既に相当な時間が経っていたんだろう。
 彼女は慌てふためき、僕と缶コーヒーを交互に見て見当違いな事を言った。

「……あげないわよ?」

 僕は思わず笑ってしまい、こう答えた。

「どうりで手を出さないわけだ」

「……ばか」

 気づかれた、と顔を赤くさせた彼女の手を握る。彼女の右手は温かかった。

「火、頂戴」

 僕は彼女の銜えたタバコに火を点けた。彼女はすぐさまそっぽ向いて、赤くなっている顔を隠してしまう。

「そのくらい素直になれば、恥ずかしい思いしなくてもすんだのに」

「余計なお世話よ」

 うまく自分の気持ちを伝えられない彼女を何処に連れて行こうかと、僕は苦笑しながらも思案する。まぁ、一つしかあるまい。お金が無い僕達が、暖かな場所に長時間居座れるあの場所しかない。

「ファミレスでも行こうか、寒いし」

「また?」

「こんな時間、選択肢は殆どないだろ?」

 冷たくなっている彼女の手を引き、僕は目的地へと歩き出す。
 無駄だと思えるボーっとした時間も、彼女と一緒なら楽しめる。好きって感情に溺れてるのはこっちかも知れないな……。僕も知らず知らずのうちに、笑顔になっていた。

「顔、ニヤけてるわよ」

 彼女に指摘され、僕も満更じゃないのかと苦笑する。


 はてさて、今日のわがまま姫のお言葉は何だろうか。
 僕は足早になっていた。そして彼女も。



 さて、今日は何時間居座ることになるのかね?


 先程奪った缶コーヒーの中身を啜る。
 その味はほろ苦く、でもどこか甘く感じられた。